[ まぼろしコーヒーカップ ]





唇になにかが触れる。
閉じた瞳をゆっくり開く。
眩しい光と共に、白く透き通るような綺麗な顔がうっすらと見えた。


「目を閉じたということは、諦めたということかな、
「・・・は、い」
「よろしい」
「わたしが言う前に、キスしたでしょ、あんた」
「それはどうかな。
 君の唇に何かが触れたのは事実だが、それが私の唇かどうかは目を閉じていた君にはわからないだろう?」
「うっ・・・」


諦めて目を閉じたことを激しく後悔した。
ルーファウスの胸を両手で押し、彼がよろめいたところ、すかさず早歩きで逃げた。
意外なことに、走って逃げると追いかけてくるくせに、早歩きだと追ってこない。
きっと、一生懸命早歩きしているわたしの姿を眺めているのだろう。
気色悪い。

ルーファウスと一緒にいると疲れる。仕事や運動の何倍も疲れる。
その疲労への対価がないことが、いちばん腹立たしい。
世の中、金! ギブアンドテイク! パワハラセクハラ反対!
道端の自動販売機で栄養ドリンクを見つけて、思わず買ってしまう。
疲れている。
独特の甘い味に顔をしかめながら、私は職場へ戻る。
仕事中なのに、仕事の邪魔をするルーファウス。迷惑極まりない。

職場に戻れば、かわいい後輩たちが笑顔で迎えてくれる。
妙に皆が揃って笑顔だなと思えば、3時のおやつでケーキを食べていた。
紅茶のいい匂いもする。
一体どういうことだ。昨日は皆で割れせんべいを取り合っていたというのに。


「おかえりなさーい、センパイ! ケーキの差し入れいただいちゃいました〜」
「どこから?」
「わかんないけど、室長がもらったって置いていきましたよ」


出所不明とはいえ、とてもおいしそうなケーキ。いただかないわけにはいかない。
しっかりと食べた。
食べたら外であった嫌なことも全部忘れられた。
本当に幸せ。ケーキがおいしいと感じられる人間で本当によかった。

おやつを食べたら取引先との打ち合わせ結果を資料にまとめる。
パソコンに向かい、手書きのメモを文章化する。
メールの受信通知があっても無視する。
異様な程、メール受信通知のポップアップが表示され、眉間に皺を寄せたままメールブラウザを最大化する。
【RENO】の表示の羅列に白目を剥いた。
ルーファウスの差し金だ。

メールの内容はすべて同じ。
プログラムを組んで、一分毎に自動メール送信をしかけているらしい。
やめてくれ。タークスの高等能力をそういうことに使わないでくれ。


【うちの社長の栄養補給たのむぞ、と】


嫌だ。帰りたい。
せっかくケーキで栄養補給したのに、私の栄養が全部失われてしまう。
ヤダーヤダーとパソコンに向かってうなっていると、室長で満面の笑みで私の傍に仁王立ちになる。


「ハッハッハ、神羅カンパニーと取引が成立したぞ! しかも一流パティシエのケーキまでいただいた。
 どれもこれも、神羅カンパニーの未来の社長夫人のおかげだな。これからも頼むよ、君」
「あ、あ、あ、あ、あのケーキ、ルーファウスからの・・・」
「うちの若い子たち、みんな目をハートにさせていたからね」
「勘弁してください。奴といたら、私の体がもたない」


大きなため息をついて、パソコンに向かう。
最低限の仕事を片付けて、早退した。
日が沈む前に帰るのは気分がいい。ルーファウスに会わなければ。

タクシーを捕まえて帰宅したけれど遅かった。
1DKのマンションの前には白塗りの高級車が止まっている。
後ずさりしたら、後頭部に何かを突きつけられた。


「逃げるなら、このロッドで攻撃するぞ、と」
「レノさんからのメールはすべて迷惑メールに振り分けました」
「そうか。そろそろメールボックスも容量いっぱいになっているころだぞ、と」
「え?」
「さっき、5メガの添付ファイルをつけて1分毎に送信するように変更したぞ、と」
「明日は取引先に謝罪電話しなくちゃね」
「その必要もないぞ、と。社長に訊きな」


なんとなく想像はつく。
足取りは重くなるばかり。
「諦めたということか」という問いに、歯切れは悪くともイエスと答えた。
覚悟はしたつもり。今度こそ、覚悟を決める。

合鍵を持っているくせに、部屋に入らず玄関の前でルーファウスは立っていた。
私に気づいても、何も言わない。


「そんなところに突っ立ってないで、部屋にあがりなさいよ」
「邪魔する」
「いつもは勝手にあがってるくせに」
「けじめをつけるときは、私もつける」
「けじめ?」


ルーファウスにつけるけじめなんてあるのだろうか。
私に対して好き放題をやめる様子もない。勤務先まで巻き込む始末。
けじめより、謝罪をください。
コーヒーと紅茶を淹れて、テーブルの上に並べる。
ソファでくつろぐルーファウスの隣に腰掛けると、珍しくルーファウスはコーヒーに口を付けずに姿勢を正す。


「無茶なやり方は承知の上だが、そうでもしないと他に取られてしまうから、仕方がなかった」
「何が?」
のことをだ。綺麗な言い方ではないが、唾をつけておく、とでも言うか」
「相当無茶なやり方ですよ。私のこと、神羅カンパニーに引き抜いたんでしょう?」
「さすがだな。言わなくてもわかる、か。最終的には……」
「社長夫人でしょう?」


ルーファウスは黙って頷き、コーヒーカップに手をつけた。
その表情は、「言わなくてもわかる、か」と先程の言葉を繰り返しているようだった。
それがおかしくて笑ってしまった。


「何がおかしい?」
「ルーファウスの顔が」
「失礼だな」
「なんだかんだ言って、私はルーファウスのこと好きなのかもね。一緒にいると疲れると思うのも、楽しみすぎて疲れているのかも」
「ポジティブシンキングはよいことだ」


ふわっとコーヒーの香りがして、視界が暗くなる。唇に温かいものが触れて離れていく。
「好きだ、」と聞こえたのは、幻聴だったか。





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2014年11月に更新した「栄養補給の手段は…」のために書いていたもので、
【うちの社長の栄養補給たのむぞ、と】まで書いて、
気に入らなくなって放置していたものに加筆しました。

4年半経っても、文章の質は変わらないわな…
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