[ ほころびるこもれびの ]
休日の昼下がり、部屋で本を読んでいた。
男性が喜ぶシーンがあった。
好意を寄せている女性から、下の名前を初めて呼ばれ、もっと呼んでほしいと物思いにふけっていた。
私は、土方さんの下の名前を呼んだことはない。
呼んでほしいと頼まれたこともないけれど、この本の通りだとしたら、土方さんは私が名前を呼ぶのを待っているのかもしれない。
「とう、しろう、さん」
慣れない呼び方に顔が火照る。
ふと縁側で物音がした。
恐る恐る障子を開けると、澄ました顔をした土方さんが座っていた。
「とう……、ひじ、かたさん」
「休み中に悪いな、」
「いいえ、どうかしましたか」
「茶、淹れてもらってもいいか。誰もいなくてな」
「わかりました。部屋までお持ちしますね」
湯呑みに茶を淹れて土方さんの部屋へ運ぶ。
さっきは名前を呼ぶのに失敗した。
今度は、きちんと呼ぼう。
副長室の前で「失礼します」と声をかけて部屋に入る。
土方さんは机に向かった黙々と書類を片付けている。
「お茶、淹れました。熱いので気を付けてくださいね」
「あぁ、助かった。ありがとな」
振り返って私を見ることはなかった。
欲が出て、顔を見たいと思った。休憩がてら、少しお話しできればいいなと思った。
ただ、本の中の出来事が現実になると思い込んでしまった。
「十四郎さん」
ようやく呼べた。
安堵したのも束の間、ゴトンと鈍い音を立てて湯呑みが畳の上に落ちた。
茶が畳の上に広がっていく。
手持ちのハンカチで拭き取れば、土方さんの手が私の手首を掴んで止めた。
「いい、俺が落としたんだ。片付けるよ」
「もう一度、淹れてきますね」
「いい。もう、いい。悪かったな、休みなのに頼んで」
目は合わせてくれなかった。
俯いている土方さんの目線は畳の目を見ているようで、私のことは気に留めていないようだった。
喜んでもらえなかった。仕事の邪魔をしてしまった。
本の中の出来事は、あくまで本の中での出来事。現実のものではない。
部屋に戻って本の続きを読む。
彼のことを下の名前で呼ぶ者は他にいなかった。
土方さんの下の名前を呼ぶ人も、いない。
近藤さんが呼ぶ「トシ」というのは愛称であって名前ではない。
名前を呼べば特別な存在になれると思った。
けれど、なれなかった。
そうだ、そうだったんだ。
土方さんにとって特別な存在は、もう決まっていた。
その人が、その名で呼んでいたのだ、きっと。
優しい声で、微笑んで、それを土方さんはずっと大事にしているのだ。
私は土方さんが大事にしている思い出を、土足で踏みにじってしまった。
だから、名前を呼んだときに湯呑みを落としたのだ。
「ごめんなさい、土方さん。私、取り返しのつかないことをしてしまった。ごめんなさい。
ごめんなさい、ミツバさん。私には土方さんの名前を呼ぶ資格なんてないのに」
本を閉じた。
止まらない涙で、湿らせてしまう前に。
*
顔が見たい。
ただそれだけの理由で、人がいないと嘘をついて茶を頼んだ。
いつものように優しい声で、微笑んで、快く引き受けてくれた。
安心して部屋に戻ると、明らかに書類が増えていた。
鬼の居ぬ間になんとやら、とはこのことか。
が部屋に来たら休憩するつもりだったが、とてもできそうにない。
少しずつ、少しずつ、書類に目を通して判を押す。
厄介な書類に目を通していると、が部屋にやってきた。
目が離せなくて、机の隅に置かれた湯呑みに手をやり一口飲んだ。
まだは部屋にいた。
この書類の処理が終わったら休憩しよう、そう思って声をかけようとしたら、名前を呼ばれた。
いつもの優しい声が、俺の苗字ではなく名前を呼んだ。
紛れもないの声が、この世にはいない別人と重なる。
気づいた時には湯呑みが手から離れていた。
ゴトンと音を立てて落ちた湯呑みから、飲みかけの茶がこぼれて畳を濡らす。
さっと手際よくハンカチを取り出して茶を拭き取ろうとする。
俺のせいでのハンカチを濡らすのは悪い。
そう思っての手を取った。
休日なのに茶を淹れてくれたにあわせる顔がなくて、俯いたまま。
悪いことをした。に謝ろう。
夕方になって書類整理も落ち着いた頃、離れのの部屋に向かった。
障子越しに声を掛けたが返事がなかった。
そっと障子を開くと、畳の上にが寝転がっていた。
布団もかぶらず、風邪引いたらどうするんだ。
近づいて頭を撫でようとして手を止めた。
の目元に涙の跡らしきものがあった。
泣いていた? どうして?
俺が粗相をしたからか。
すれ違いばかりだな。
溜息をついて目線を逸らすと、本が目に入った。
聞いたことのある作家の名前の短編小説。
興味本位で栞紐の挟まったページを開く。
惚れた女から名前を呼ばれ、喜ぶ男の話だった。
が俺の名前を呼んだのは、きっとこの本を読んで、俺が喜ぶと思ったからだろう。
俺への気遣いを台無しにしてしまった。情けない。
名前を呼ばれて嬉しかった。少し距離が縮まった気がした。
それと同時に驚いた。今では誰も呼ばなくなったその名前に、あいつの姿が重なった。
きっと、はそれに気づいたのだろう。
もう一度、呼んでほしい。
「もう一回、呼んでくれねぇか。俺の、名前」
の頬に指先で触れると、のまつげが揺らいだ。
「ひじ、かた、さん?」
「起こしちまったか」
「ごめんなさい。お茶、淹れましょうか」
「それより、もう一回、俺の名前、呼んでくれ」
少し腫れている寝ぼけ眼をこすりながら体を起こしたは、俺の目を真っ直ぐ見て「土方さん」と呼んだ。
そうじゃない。そっちじゃない。俺が呼んでほしいのは。
「苗字じゃなくて、名前。あのときみたいに」
「あ、や、あの……」
「もう一回、聞きたい」
「と、と……、とう……」
俺の名前を呼ぼうとして涙を流す。
そんなに苦しいことなのか、俺の名前を呼ぶことは。
泣かせてばかりで、俺は最低だ。
の肩を掴んで抱き寄せた。
「もう、いい。無理、しなくていい。ごめんな、無理言って」
「ごめん、なさい……」
「謝るのは俺の方だ。休みなのに茶を頼んだくせにこぼして、本当に悪かった」
「いいえ、悪いのは、気が利かない私です」
「そんなことはない! いつも気が利いて、優しくしてくれて、俺にとってかけがえのない存在だ」
だから、笑っていてほしい。
それも、俺のわがままなのか。
「ごめんな」
泣き止むまで、を強く抱きしめた。
数日後、顔を見たいことを口実に休暇中のの部屋を覗きに行く。
閉ざされた障子の奥から話し声が聞こえる。
他の女中と話しているのだろうか。
縁側に腰掛け、耳を澄ます。
聞こえてくるのはの声だけ。
何の発声練習をしているのかと思えば、内容を聞いて苦笑した。
「十四郎さん、おはようございます」
「こんにちは、十四郎さん」
「こんばんは、十四郎さん」
「十四郎さん、お茶はいかがですか」
「十四郎さん、今後のお休みはいつですか」
「おやすみなさい、十四郎さん」
俺の名前を呼ぶ練習をしてくれているんだな。
の声が俺の名を何度も呼ぶ。
心地よくて、このままずっと聞いていたいと思った。
それでも、欲が出るのが人間だ。
黙って障子を開けると、は俺の顔を見て慌てふためき、顔を真っ赤に染め上げた。
「ひ、土方さん!」
「じゃなくて?」
「と、とうしろう、さん」
「もう一回」
「とうしろう、さん」
「もう一回」
「十四郎さん……あの、お、お茶はいかがですか。喉が渇いたので淹れてきます」
「あぁ、頼む」
逃げられたか。
けれど、たくさん名前を呼んでくれたことが嬉しかった。
縁側で日を浴びていると、が茶を淹れて戻って来た。
俺の隣に腰掛け、湯呑みを差し出す。
「どうぞ、十四郎さん」
「お、おう、ありがとう」
あまりにも自然だった。不意打ちでどもってしまった。
少し赤く染まった顔で、は微笑んだ。
お題はOTOGIUNIONさんからお借りしました。
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ずっと前から練っていて、ようやく書けました。
「十四郎さん」と呼ぶ人ってミツバさんしかいないなーと思いまして。
名前を呼ぶ練習は、苗字を呼ぶ練習をしたという友人の話より。