[ からっぽ ]





せっかくが茶を淹れてきてくれたというのに、顔を見る余裕すらないくらい追い詰められていた。


「ったく、近藤さんも今日の午後一が締め切りの書類を当日まで放っておくなんて、どうだかなぁ」
「大変ですね。お茶と茶菓子、ここに置きますね」
「あぁ、いつも悪いな」
「これが私の仕事ですから」


右手で筆を走らせながら、左手で湯呑みを掴む。
一口だけ茶を飲めば、苛立っていた心も落ち着いた。
少し顔を上げ、ふーっと息を吐く。
トンと、背に何かが当たる感触。
か? が俺の背に触れている?
ゆっくり首を回すと、が頭を俺の背に付けていた。

休憩、してるのか?
いや、甘えてる、のか?
俺に、構ってほしい、のか?

でも、今日だけは構ってやれない。どうしても、この書類を片付けないと。
夕方になったら戻ってくるから。そしたらいくらでも構ってやるから、少し我慢してくれ。
せめて頭を撫でてやろうと思い体も後ろへ向けようとしたが、の方が先に顔をあげてしまった。
なんとなく、元気がない。
俺が、すぐに構ってやらなかったからか。


「ごめんなさい、足を滑らせました」
「そ、そうか。気をつけろよな」
「はい。失礼します」


先を急ぐようには部屋から去ってしまった。
悪いことをしてしまった。一分でも構ってやればよかった。
できるだけ仕事を早く片付けて、夜は二人でのんびり過ごそう。
の話をたくさん聞いてやろう。たくさん笑顔にしてやろう。

結局、一つ仕事を片付けてもまた別の仕事が飛び込んできて、夜の九時を回ったころに出先からようやく屯所に戻ることができた。
はもう部屋に戻っているだろうが、念の為、食堂を覗く。
まだ明かりはついていたが、入っても隊士は飯を食っておらず、誰もいなかった。
消し忘れか。それとも少し外しているだけか。
炊事場に足を踏み入れると、流し台の傍に人影を見つけた。
荒い呼吸が聞こえる。流し台に掛けた手が、流しを強く掴んでいる。

痛くて、苦しいんだな。

もっと、早くここに来るべきだった。
片方の手での背を撫で、他方は流し台に掛けた手の甲に重ねた。


「どうした? 大丈夫か? 具合、悪いのか? どこが、痛いんだ?」
「だい、じょうぶ、です。すこし、やすめば、だいじょうぶ」
「全然大丈夫じゃねぇだろ。横になるか? 医者呼ぶか?」
「痛み止めが切れただけなんで、大丈夫、です。もう飲んだから、大丈夫」
「本当に、大丈夫なのか? 顔、真っ青だぞ。いいからもう休め。どこが痛いんだ? 怪我したのか?」


まくし立てても口を開いてはくれなかった。
俺には言いたくないのか。心配掛けたくないのか。
流し台に掛けたの手を外し、その手ごと抱きしめる。


「月のものが、ちょっと、重いだけなので、大丈夫です。何日か我慢すれば、元気になりますから」
「そうか。でも今日は辛いんだろ。もう休め」
「まだ、片付けが……」
「そんなもん、俺がやるから休め。今日、他の女中はもう帰ってんだろ。俺たちでできることはやるから」
「でも……」


抱き上げて、無理やり部屋に押し込んでやろうと思ったちょうどそのとき、食堂の扉がガタガタと音を立てた。
誰かが来たのか。ちょうどいい。片付けを頼もう。
来訪者の顔を見るために立ち上がる。山崎だった。
俺が炊事場の方にいることに驚いている。当然だ。真選組副長が炊事場に用があることなんて、ほぼ無いに等しいから。


「副長! どうしたんですか?」
「山崎、後で食堂の片付けやっといてくれるか。の具合が悪いんだ」
さん、休んでなかったんですか? あれほど昼に言ったのに……」
「どういうことだ?」


朝からずっと具合が悪そうにしていたらしい。
全然気づかなかった。さすが監察と言ったところか。
あんなに近くにいたのに、俺はが甘えてきていると勘違いしてしまった。
助けを呼んでいたのだ。
辛いから休みたい、でも休みたいとは言えない。
どうしようもない気持ちを、俺の背にぶつけていたのに、全く気づいてやれなかった。
自分の都合のいいように捉えていた。
元気がなかったのは、具合が悪いこと以外に、そんな俺に失望していたのもあるだろう。

何が、夜は二人でのんびり過ごそう、だ。
何が、の話をたくさん聞いてやろう、だ。
のことを何一つ考えてないくせに。
ふざけんな。

有無を言わさず、を抱き上げて食堂を飛び出た。
廊下ですれ違う隊士を気にも留めず、女中の住まいである離れにあがりこむ。
いちばん奥のの部屋の障子を足で開き、部屋の中での体をゆっくりと畳の上に下ろした。


「すぐ布団敷くから、待ってろ」
「自分で、やりますから」
「俺に、やらせてくれ」
「自分で、できます」
「いいから! 俺に、させてくれよ……」


少し声を荒げたら、は肩を震わせた。
怖がらせてしまった。
今日の俺は、最低だ。

と向かい合った。
の瞳が揺れている。
具合が悪いのに、俺のせいで余計な負担を掛けてしまった。

「朝、茶ァ淹れてくれたときから具合悪かったんだよな。気づかなくて悪かった」
は首を左右に振る。


「俺に助けを呼んでたんだよな。辛いから休みてぇって、でも休めねぇって。
 それなのに、俺は、お前が甘えてきたとばかり思って、心の底でちょっと喜んでた。
 俺が気づいてたら、こんな時間まで辛い思いさせなかったのに、山崎が気づいて、なんでいちばん傍にいる俺が気付けなかったんだよ……」
「そんなふうに言わないでください。土方さんが来てくれて、手を握ってくれたから、少し楽になりました。
 歩くのも辛いから、ここまで運んでくれて助かりました。本当に、ありがとうございます」
「俺のこと、責めろよ。なんで、いつもそんなに優しいんだよ、こんな俺なのに」


怒りを込めた拳を、膝の上に叩きつける。
こんな軽い痛みじゃないんだろう? 歩くのも辛いくらい、苦しいんだろう?
それなのに、の声は優しかった。
穏やかな表情で、俺の手に触れてくる。


「土方さんのこと、好きだから。いつも、私に優しくしてくれるから、私もそうしたい。
 そんなに自分を責めないで。そんな苦しそうな顔、しないで」
の痛みをこれっぽっちもわかってやれないのにか」
「土方さんが来てくれたから、痛みも治まってきました。もう、大丈夫です」
「それでも、大事をとって休んでくれ」


は小さく頷く。
押し入れから布団を出して床の準備を整え、が寝る仕度をするのを待った。
顔を洗って着替えるだけなのに戻りが遅い。
またどこかでしゃがみこんでいるんじゃないかと心配になる。
廊下へ出ると、目の前にがいた。
倒れていなくて安心する。
肩を抱き、体を支えて布団の中へ連れていく。
横になり布団をすっぽり被ったは、穏やかな表情をしている。


「ありがとうございました。自分で布団を敷かなくてよくなって助かりました」
「それくらいしか俺にはできねぇからな。辛いんだろ? 代わってやりてぇが、そうもいかねえしな」
「大丈夫です。いつものことですから」
「そんなにいつも辛いのか? 本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫ですよ、本当に。もう大丈夫です。土方さんが、傍にいてくれたから、もう大丈夫」


強がっているだけかもしれない。
けれど、これ以上何も言えなかった。
もう、俺に帰れということなのだろう。
「食堂の片付けしてくる」そう言って部屋を出た。

食堂に戻ると、山崎が一人で茶漬けを食べていた。
黙って炊事場の流し台に向かう。
丼ぶりが数個残っているだけだった。それすら洗うのが辛かったのだ、は。
俺は、本当にの傍にいていいのだろうか。
のことを苦しめるだけではないだろうか。
もっとのことを幸せにしてやれる男がいるのではないだろうか。そう思う。


「山崎、俺はの傍にいていいんだろうか」
「半端ないですね、落ち込み方が。俺がやりますから、もう休んでくださいよ」
「いいんだ、俺にやらせてくれ。のためにできることは、これくらいしかねぇんだよ」


洗剤を泡立てたスポンジで丼ぶりの汚れを落とす。
仕事の手伝いじゃなくて、もっとが喜ぶことをしてやりたい。
笑っていてほしい。幸せだと感じてほしい。
何一つ、してやれていない。


「そんなことないですよ。さんは副長に優しくしてもらって嬉しいっていつも言ってますよ」
「本当か?」
「何を買ってもらったとか、どこへ連れて行ってもらったとか、話を聞いてもらったとか、逐一報告してくれますよ」
「なんで、てめーがそんな報告受けてんだよ」
「なんでも話せる友達が、近くにいないからじゃないですか?」


言われて初めて気づく。
女中たちは友達と呼ぶには年が離れすぎている。親に近いくらいだ。
真選組の隊士は、年は近くとも男しかいない。
アルバイトしていたときにできた友達がいると聞いたが、疎遠にもなるだろう。

俺には近藤さんが、総悟が、真選組の仲間がいる。
の心の隙間は俺がいれば十分埋まると思っていた。
俺だけじゃ、埋まらないことにようやく気づいた。


「まぁ、こんなところにいちゃぁまともな友達なんてできやしないでしょう。
 年は近くともキャバ嬢だったり、少し年が離れた怪力娘だったり、そもそも真選組の女中である時点で一般市民とは交流を深められないでしょうね」
「だったら、どうすりゃいいんだよ」
「と言われましても、困りますよ。でも、いいんじゃないんですか?
 さん、副長と一緒の時はいつも幸せそうな顔してますし、副長の話をしてるときも笑顔ですし」


今日は、一度も笑った顔が見られなかった。
そんなことにも気づかなかった。
山崎が運んできた丼ぶりと箸を奪い取ると、自分でやると慌てふためく山崎を無視してスポンジで汚れを落とした。
さっさと部屋に帰れと言ったのに、山崎は帰ろうとしない。


「もっと、さんのこと信頼してあげてくださいよ。
 そりゃ、真選組の副長と一般市民を比べたら、さんと一緒にいられる時間は一般市民の方が長いでしょうが、
 さんは副長のことを選んだんですよ。さんも副長に気を遣って遠慮がちですから、次は期待に応えてあげてください」
「そう、だな。次は、気を付ける」
「俺も、気が付いたらすぐ副長に伝えますから。すみません、今日はどうしても伝えられなくて」
「いや、俺が連絡つかない場所にいたからな。気ぃ遣わせて悪かった」


二人で支え合っているわけじゃない。周りにも支えられてることに気づいた。
もっと俺がしっかりしないといけない。

山崎と二人で食堂を片付け、明かりを消して別れた。
風呂に入ってから、女中たちの離れに向かう。
今日は、以外の女中たちが出かけると言っていたから、踏み込んだって誰も咎めやしない。
足音を立てないようにゆっくりと廊下を歩き、の部屋の障子を少しだけ開けた。
隙間からが眠っていることを確認して、障子を閉じる。
俺が部屋にいたら気を遣うだろう。でも、心配だから傍にいたい。
廊下にいることくらい許してくれ。
柱にもたれかかって目を閉じた。

明日は少しでも、の体を気遣ってやれますように。
明日は少しでも、が元気に過ごせますように。

そんなことを、願いながら。





肩に掛かる重みとぬくもりで目が覚めた。
どのくらい眠ったのだろうか。
時計も無い。雨戸が閉められていて外の様子も伺えない。
体を覆うように布団が掛けられていて、肩にはの頭が寄りかかっていた。
何してんだよ。
体をしっかり休めてほしかったのに、こんなところで横にもなれずにいたら休まらないだろ。
布団をの体に巻き付け、抱き上げようとしたら、がゆっくりと瞼を開いた。
起こしてしまったか。そもそもこんなところで熟睡できるわけがない。


「ちゃんと、布団で寝てろよ」
「土方さんが廊下で寝てたので、風邪引いたらいけないと思って」
「俺のことより、自分のこと心配してろ」
「でも、廊下で寝てたら余計疲れがたまっちゃいますし。
 それに、あの、土方さんが近くにいるなら、一緒にいたいって、くっついていたいって思ったら、駄目ですか」
「駄目なわきゃねーよ! とにかく布団に戻れ」


掛布団ごとを抱き上げ、部屋の中の敷布団の上に横たわらせる。
掛布団を整え、畳の上に寝転がると、は俺の上に布団を掛けようとするから押し返す。


「いいから、かぶってろ」
「でも、土方さんの布団ないから」
「俺のことはいいから」
「私と一緒にいるのは嫌ですか」
「嫌じゃねーよ。好きに決まってんだろ」
「だったら、一緒に、寝てく……」


は口をつぐんで頬を赤く染めている。
違う意味も含んだ言葉を自ら選んでしまったことに、羞恥心を抱いているのだろう。


「そうですよね、汚れるから嫌ですよね。こんな私と一緒になんて寝たくないですよね。ごめんなさい、そんなことにも気づかなくて」
「汚れるなんて思っちゃいねーよ。にしっかり温まって寝てほしいから。ほら、俺に布団かけたら、背中が寒いだろ」
「気にしない、です」
「俺が気にする。ほら、この布団はお前のモンだ。押し入れに夏用の布団あんだろ? 俺はそれ借りるな」


言い終わる前に体を起こして押し入れを開ける。
綺麗に整理された押し入れの上に置かれた布団袋を降ろし、夏用の薄い布団を取り出した。
は敷布団の端に体を寄せ、空いたところを掌でポンポンと叩く。
俺に、ここで寝ろというのだ。
これ以上、と言い合いをするつもりはない。
遠慮なく敷布団を借りた。


「狭いだろ。もっとこっちこいよ」
「はい」
「もっと」
「あの、土方さんとくっついちゃう」
「くっつきたかったんじゃねぇのか?」
「あの、でも、くっついたら、私の体が欲しくなるって」
「今日は何にもしねーよ。俺のことはいいから、自分のことだけ考えてろ」
「はい」


は俺の腕を両腕で抱きしめ、額を肩に当てる。
滅多に甘えてこないが、今日はやけに積極的だ。
普段からこれくらい甘えてくればいいのに。
甘やかしたいのに、甘やかせられない俺も悪いのだが。


「ありがとう、ございます」
「何がだ?」
「傍に、いてくれて。辛いけど、頑張れそう」
「まだ、辛いのか?」
「い、いえ、大丈夫です」
「俺の前では無理すんな」


はこくりと小さく頷く。
大きく息を吸って吐き、吸って吐き、それを繰り返す。
辛い痛みを紛らわすために、深呼吸を繰り返してるんだな。


「代わってやりてぇよ。どんだけ辛ぇんだ」
「だい、じょうぶ、ですから」
「だから、俺の前では無理すんなって言ったろ」
「心配、かけたくない、です」
「心配させろよ。大事にしてぇんだよ、のこと」
「もう、十分、大事にしてもらってます」
「それでも、足りねぇんだよ」


隣で横たわる体を、強く抱きしめる。
もっと、大事にしたい。
大切にしたい。
の心の隙間を埋めてやりたいのに、に気を遣わせてばかりだ。

かすれた声が聞こえた。「なんだか、朝までぐっすり眠れそう」、と。
すぐに小さな寝息をたてる

どうすればの心を満たすことができるのだろうか。
俺はがいてくれるだけで十分満たされている。
でも、のことを満たせていないと感じる。
何をしても。

自分の胸にの顔を押し付ける。

を満たしたい。

そんなことを考えながら、重くなった瞼を閉じた。




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逆に満たされてない土方さん。

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